AI小説「ケイのオレンジ・ライフ」最終章

実験室

ケイの薄だいだいの朝

    目を覚ましたとき、カーテンの隙間から入る光が、もう朝の明るさを過ぎていた。ケイはしばらく、自分がどこにいるのかわからなかった。寝室の天井は見慣れているはずなのに、白い面が妙に遠く、薄い膜を一枚挟んだ向こうにあるように見えた。首を少し動かすと、枕が冷たく湿っていた。泣きながら眠ったのだと、そのときになって気づいた。

    昨夜のことを思い出そうとした瞬間、胸の奥がきつく縮んだ。断片だけが先に浮かんだ。黒い上着。赤い竜胆の模様。スマートフォンを突きつける手。笑いながらピースサインを作った男の顔。道路に膝をついた夫の背中。警察官の怒声。誰かが「撮れてる」と言った声。自分の喉から出た、聞いたことのないほど濁った罵声。

    ずっと電話が鳴っていた。テレビ局、新聞社、党本部、知らない番号、支持者、心配する知人。朝になってもそれは続いていた。

    「起きたか」

    夫がやってきた。病院に行って検査を受けたが大したことはないということで、そのまま帰されたのだった。夫はベッドの脇まで来て、少し屈むようにして顔をのぞきこんだ。それを見てケイは再び泣いた。真兵からは「投票日は朝から投票所周辺をぶらぶら散歩して、道行く人に挨拶をするように」と言われていたが、そんなことをする気は起きなかった。ただただ涙が流れた。

    夫は困ったように笑い、腹のあたりを軽くさすった。

    「本当に大丈夫だよ。見た目ほどじゃなかった」

    そう言って、夫はベッドの端に腰を下ろした。慰めようとしているのはわかったが、その言葉はうまく胸に入ってこなかった。大丈夫だと言われても、ケイの中ではまだ何ひとつ大丈夫ではなかった。黒と赤の集団への恐怖も、自分の選挙をめちゃくちゃにされた悔しさも、夫が目の前で倒れた瞬間の記憶も、どうしてこんなことを始めてしまったのだろうという思いも、濁った水のように胸の中で混ざり合い、形を持たないまま沈んでいた。

    夫はしばらくそばにいてくれた。無理に励まさず、ただ、ときどき「水だけでも飲むか」とか「カーテン閉めようか」とか、そんなことを言った。ケイは首を振ったり、かすかにうなずいたりするだけだった。選挙のことを考えようとすると、昨日の映像がすぐに割り込んできた。男が笑っていた顔。警官に押さえられながらも、勝った者のように指を二本立てた手。あの場にいた人々の、何かが起こることを期待していた目。

    午後もかなり遅くなってから、ようやくケイは体を起こした。顔を洗うと、鏡の中の自分は思った以上にひどかった。目は腫れ、頬はまだらに赤く、髪は寝癖で崩れていた。こんな顔で人前に出るのかと思った。これ以上関わりたくないと思ったが、なんとか身なりを整えて、夫とともに事務所へと向かった。

    選挙事務所に着くと、ドアを開けた瞬間に空気が変わった。ミキが最初に立ち上がり、次いでミホ、リエ、アユ、マイが振り向いた。皆の顔に、ほっとした色が一斉に浮かぶ。
    「ケイ」
    「大丈夫?」
    「ご主人は?」
    「来られてよかった……」
    口々に声が飛んだ。ミホは本気で泣きそうな顔をしていたし、リエは「本当に怖かった」と何度も繰り返した。アユは静かに温かいお茶を差し出し、マイは「ひどい話だよ」と低い声で言った。隆夫は椅子に座っていたが、ケイの顔を見ると、大きく一度だけうなずいた。あの人なりの気遣いなのだろうと、今はわかった。

    真兵は机の向こうで資料を整理していた。顔を上げると、いつもと変わらない調子で言った。

「落ち着きましたか」

    「ようやく、少しは」

    ケイは答えた。真兵はコーヒーを入れるとケイに勧め、ケイが飲むのを待って昨日からの状況を報告しはじめた。

「向こうで暴れていた奴らは昨日ほぼ逮捕されました。今はもう危険はありません。ただ、こちらも浩一さんが逮捕されています。騒動の中で興奮して暴れ出し、向こうに殴りかかったんです。他の人はスタッフ、ボランティア含め逮捕された人はいませんでしたが、事情聴取を受けた人、これから受ける人もいます。ケイさんも昨日警察に行かれましたが、現場検証などもこれからあるでしょうね」

    「マスコミもSNSも、ケイさんに同情的な声が多いです。ご自身が一番よく分かっていらっしゃると思いますが、今は電話に出ない方がいいでしょうし、SNSも見ない方がいいと思います」

    「ここまでの投票率は前回よりもやや上振れしており、党にとっては追い風です。昨日の事件も基本的にはプラスに働くはずで、終盤情勢でだいぶ追い上げが見られたことも考えると、期待が出来る状態です」

    基本的にはプラス。コーヒーの味を噛みしめながらケイは思った。

    「今日は投票終了までマスコミをシャットアウトしています。勝っても負けても昨日のことを聞きたがるでしょうから、想定問答を作ってマスコミ対策をしましょう」

    現場にいないと、こんなにも頭が先に回るものなのね。ケイはそう思ったが真兵に従うことにした。他のみんなは動揺しているし、その中にいたら自分も流され、気分が沈んでしまうと思ったからだ。

    二十時。投票終了。画面が切り替わり、特番のオープニングが流れる。スタジオの照明が一段明るくなり、キャスターの声も少しだけ張りを帯びる。全国の主要選挙区の一覧が並び、色と数字が画面を埋めていく。

    「当選確実です」

    キャスターが名前を読み上げる。長年テレビで見てきた有名な政治家の顔写真に、赤い帯が重なる。スタジオでは解説者が何かを言い、別の画面では支援者に囲まれた当人が手を振っている。

    「早いな」

    隆夫がぼそりと言った。

「20時00分ちょうど。まだ開票箱のフタも開けてないはずなのに、なんで当選が決まるわけ? おかしいだろ、物理的に。」

「これ、最初からシナリオが決まってるんのよ。だって0%で『確定』って、日本語として崩壊してるわよ。裏で数字を打ち込んでいる誰かがいるのよ」

リエが賛同した。

「出口調査の結果って言ってるけども、私も私の周りの人も一度も聞かれたことないよ? 適当にどっかの誰かに聞いただけで『国民の意思』みたいに言われても困るよね。あんなの、特定の政党を勝たせるための印象操作じゃないの?私の周りはみんなここに投票してるもの」

ミキも賛同した。

    その流れの中で、ふいに党首の名前が映った。

    「――当選確実です」

    画面の中で、党首が軽く手を上げる。周囲に人が集まり、フラッシュが光る。スタジオのキャスターが「今回の躍進を象徴する一人です」と言った。事務所がワッと活気づいた。

    「続いてこちらの選挙区、当選確実が出ました」

    画面が切り替わり、サヤの顔が映る。あの独特の強い目線のまま、カメラの前で何かを語っている。音声はスタジオに切り替わっていて聞こえないが、その口の動きだけでも、勢いが伝わってきた。

    「やっぱりこの2人はすぐ当確出たね!」
「次はウチかも!」

    だが、その勢いは、長くは続かなかった。画面の流れがふっと変わる。それまで次々と点灯していた「当選確実」の赤い帯が、ぴたりと止まった。スタジオの空気も、わずかに重くなる。キャスターの声の張りが少し落ち、代わりに解説者がゆっくりと話し始めた。

    「ここから先は接戦区が多くなりますので、当確のタイミングも慎重になりますね」
    「そうですね、各社とも出口調査と実際の開票状況を突き合わせながらの判断になります」

    さきほどまでの軽やかさは消え、言葉の一つ一つが、重さを持ち始めていた。事務所の中も、それに引きずられるように静かになった。テレビの中では、時折、誰かの当選速報が流れる。やがて、ケイの選挙区の出口調査が発表された。ケイは画面を見た。棒グラフは、革新系の現職が有利であることを示していた。その次がケイ。ほとんど差が無く保守系の新人候補が続いていた。開票経過は3候補が同数。

    時間が進む。

    開票率は少しずつ上がっていく。票の数も同数ずつ増えていく。九時を回るころには、事務所の空気は完全に沈んでいた。誰もが画面を見ているが、誰も積極的に言葉を発しない。テレビの画面だけが話し続けていた。

    十時を少し過ぎたころだった。テロップが出た。革新系の現職候補の当確、と。

    「――当選確実です」

    キャスターが、落ち着いた声で名前を読み上げる。誰も、何も言わない。テレビの中では、当選した現職が深く頭を下げている。支援者の拍手が、画面越しにわずかに伝わってくる。

    ケイは画面を見つめたまま、動かなかった。あれだけの事があって、その結果がこれ?受け入れるまで少し時間がかかった。やがて真兵に促され、敗戦の弁を述べるインタビューを受けたが、何を話したかはよく覚えていない。おそらく想定問答に沿って話したのだろう。

    翌日、ケイは次点で落選したことを知った。保守系の新人は期待されたよりも票が伸びず、革新系の現職は手堅く地盤を固めて勝利。それ以外の候補は供託金が没収となった。こうしてケイの選挙戦は終わっていった。

そして、木の葉がオレンジに色づく秋が来た―――

エピローグ    ケイのオレンジ・ライフ

    ケイはクリニックの扉に「本日休診」と書いた紙を貼った。予約はあらかじめ断ってある。リビングでは、ドイツ製のソファがいつもの場所に静かに沈んでいた。ケイはそこに深く腰を下ろし、テレビの電源を入れた。国会中継が始まるところだった。今日は党首が首相への代表質問に立つ。その中で、ホメオパシーについて質問する。少し前に党首から何を聞いてほしいかと聞かれていたのだ。

    議場の空気は、画面越しにも乾いて見えた。大理石と木の色が冷たく整然としているぶんだけ、人の言葉がかえって浮いて聞こえる。党首は以前よりも抑えた声で、それでもはっきりと、代替医療の選択肢を一律に周縁へ追いやる現状は適切なのか、国民が自らの健康について考え、選ぶ余地をどう保障するのか、と首相に問うた。言葉は鋭かった。与党席が何度かざわめき、首相は正面を向いたまま、わずかに眉を動かした。

    返ってきた答えは、予想通りのものだった。科学的知見、安全性の確保、現行制度との整合性、国民の理解。官僚が作った答弁集を読み上げるその口調には、何の揺らぎもなかった。何も変わらない。文字通り、一つも変わらない答弁だった。

    それでも、ケイは嬉しかった。テレビの向こうのあの遠い議場の中心で、自分が長いあいだひとりで抱えてきた言葉が、たしかに一度は口にされた。そのことだけで十分だと思えた。何かが実現したわけではない。制度は動かず、首相の顔もほとんど変わらない。けれど、自分の思いが最初から存在しなかったものとして扱われるのとは違った。

    ケイは画面を見たまま、小さく息をついた。昔の自分なら、この答弁にもっと激しく失望したかもしれない。どうして分かってくれないのかと怒り、どうして誰も変えようとしないのかと嘆いたかもしれない。けれど今は、変わらなかったことを受け止めながら、それでも嬉しいと思える自分がいた。世の中は簡単には動かない。それでも、言葉が公の場所に置かれることには意味がある。

    サヤはその後、国会でもよく目立つ議員になった。議事堂に拡声器を持ち込もうとして止められたり、委員会室の外で記者団に向かって必要以上に派手なパフォーマンスをしたりして、良くも悪くも「お騒がせ議員」として知られるようになった。ケイとはほとんど連絡を取らない。個人的なやりとりは選挙のあと、ほとんど途絶えたままだった。

    ミホは、幼稚園教諭の仕事へ静かに戻っていった。子どものこと、自分の体調のこと、家庭のこと。たまにケイのクリニックへ顔を出し、近況を話して帰る。その表情は以前より落ち着いていて、何かを強く主張するというより、日々を丁寧に持ち直している人の顔になっていた。

    マイは、党の活動にそのまま邁進していた。平日は仕事をこなし、週末になると集会に顔を出し、ビラや動画の文案まで手伝っているらしい。「政治を減らし、税金を減らし、国の関与を減らさないと」と言いつつ、日常を送り、政治もやる。その二つを無理なく両立させているように見えて、ケイは時々、少し感心した。以前は鋭さばかりが目についたが、いまはその鋭さの奥にある粘り強さも見えるようになっていた。

    隆夫とは、思いがけず取引関係ができた。季節ごとに野菜を定期的に届けてもらっている。土の匂いのする箱が玄関に届くと、ケイは少し嬉しくなる。隆夫は相変わらず口は荒いが、野菜は丁寧だった。農法には相変わらずこだわりがあるようで、今度は糸状菌を用いた農法にチャレンジするのだとのこと。

    アユとは、むしろ選挙後のほうが仲良くなった。ヨガ教室の生徒で体や心の不調を抱えた人をケイのところへ紹介してくることがある。逆にケイも、呼吸や生活習慣の立て直しが必要そうな患者をアユへつなぐことがあった。

    クミは活動を継続していた。ケイは今でも党の支部長という肩書きを持っているが、次の選挙はクミに出てもらう方向で話が進んでいる。政策にも数字にも強く、現場の整理もできる。クミのほうが向いている、とケイは素直に思えた。自分が火をつけ、次を誰かに渡す。それもまた役目の一つなのだろうと思うと、不思議と寂しさはなかった。

    リエは一時期かなり生活に困っていたらしいが、最終的に自己破産し、地元の神社で事務の仕事を見つけて生活を立て直した。職場には満足していて安心して勤められるとのこと。なるほど外国人は来なさそうだとケイは思った。党の事務も副業のような形で少しだけ続けていて、月に一度くらい支部の書類を持ってケイのもとへ来る。以前の怯えた顔とは違い、最近は少しだけ、背筋が伸びて見えた。人は、環境が変われば表情まで変わるのだと、ケイはそのたびに思った。

    浩一は、選挙のあとしばらく姿を見せなかったが、事務所を閉める最後の日にふらりと挨拶に来た。以前より妙にさっぱりした顔をしていて、「ラオスでマーケティングの仕事をして、やり直す」と言った。ケイは思わず聞き返した。浩一は詳しいことを曖昧に笑ってごまかし、「今度こそ真っ当にやる。SNSのアカウントも消した」とだけ言って帰っていった。玄関先で見送ったあとも、ケイはしばらくその背中のことを考えた。人は本当にやり直せるのだろうか、と。それ以来浩一には会っていない。

    真兵もしばらく姿を見なかったが、対立する別の党のコンサルタントになっていることが分かった。ケイは呆れたが、選挙の世界というのはどうやらそういうものらしかった。

    家族との関係は、選挙のあとむしろ穏やかになった。夫は会社で「妻を守った立派な男」と半ば冗談まじりに評され、それが思いのほか上司の覚えを良くしたらしく、少しだけ昇格した。本人は「殴られて昇進するのも妙な話だ」と笑っていたが、以前より肩の力が抜けたようにも見えた。息子たちも、最初は気まずそうだったのに、今では食卓で選挙の時の話をからかい混じりに聞いてくることがある。ケイも、それに普通に答えられるようになっていた。あの騒ぎは家族に傷を残したが、それだけではなかった。言いにくかったことを言えるようにし、見ないふりをしていた距離を少し縮めもした。

    そして、また同窓会へ。

    会場に入ると、以前とは明らかに視線が違っていた。誰もがテレビで見た、と言った。大変だったね、と言う人もいたし、応援していたよ、と言う人もいた。中には、勇気があるね、と言うをする人もいた。だが、どの声にも、前のような薄いあしらいはなかった。ケイはもう、ただの「少し変わった主婦」ではなく、皆が一度は名前を聞いたことのある人になっていた。

    ミキはそんな様子を横で見て、面白そうに笑っていた。

    「地位、上がったわね」
    「やめて」
    「ほんとよ」

    食事が進み、挨拶が一通り終わったあと、同窓会の運営をしている人たちがケイのところへやってきた。次期の役員をお願いできないか、という話だった。前なら、こういう場でケイの名前が自然に挙がることはなかっただろう。ケイは少し驚き、それから、思ったより落ち着いて受け止めている自分に気づいた。

    社会の中に、自分の位置がある。それは昔から、紙の上ではあったのかもしれない。妻であり、母であり、クリニックの主であり、大学の同窓生であるという意味では。けれど今、ケイはそれをただの肩書きではなく、手触りのあるものとして感じていた。誰かの輪の外から眺めるのではなく、自分もそこに立っているという感覚が、ようやく体に馴染み始めていた。

    宴も終わりに近づき、司会が校歌の斉唱を呼びかけた。会場の空気が少しだけ改まり人々が立ち上がる。ケイも立ち上がった。隣にはミキがいた。向こうのテーブルには、昔より年を重ねた同窓生たちが並んでいる。誰もがそれぞれ違う人生を歩いてきて、それでも今ここで同じ歌を歌おうとしている。互いの腕を組み、円を作る。懐かしい旋律が流れ出す。ドイツ由来の何度も耳にしてきたメロディーだった。

ケイはもう孤独ではない。長いあいだ、自分だけが輪の外に立っているように感じていた日々は、もう終わったのだ。誇りを持って歌いながらケイは思う、重ねゆく年とともに、自分の信念と、母校と、そして友情のために生きるのだと。