AI小説「ケイのオレンジ・ライフ」第11章

実験室

ケイの赤黒い憎悪

    最初のころ、ケイはそれが自分とどう関わるのかよくわかっていなかった。真兵は肩をすくめていた。街頭に立てばどこの陣営にも野次を飛ばす人間はいる。大きな声で罵り、スマートフォンを突きつけ、都合のいい場面だけを切り取って流す。そういうものは、選挙が始まれば湧いてくる虫のようなものだ、と。相手にしなければいい。刺激しなければいい。撮られてもこちらが落ち着いていればいい。ケイも、最初はそう思おうとした。

    だが彼らは、ただの野次馬ではなかった。黒い上着に、赤い布。旗竿を高く掲げ、太鼓のようなものを叩き、口をそろえて短い文句を繰り返す。その文句は、政治的主張というより、呪文に近かった。内容よりも、音の圧力で人を押し潰すための言葉だった。誰かがスピーカーで話し始めれば、それにかぶせるように叫ぶ。演説が止まれば、勝ち誇ったように笑う。こちらの支持者が怒れば、その怒りを待っていたように、カメラを向けて前へ出る。

    彼らのやり方には、妙な手際のよさがあった。いつ、どこで、どう騒げば映るのかを知っていた。警察に止められる一歩手前まで体を寄せる。殴られたように見える角度を知っている。弱者の顔、被害者の顔、正義の顔を、一秒で作る。ケイは何度か、彼らのひとりと目が合ったことがあった。その目は怒っていなかった。もっと冷たかった。怒っているふりをすることでしか得られない何か――視線や拍手や数字――を、静かに計算している目だった。それが、たまらなく気味が悪かった。

    選挙事務所に戻ると、蛍光灯の白さの下で、皆が少しずつ疲れていくのがわかった。支持者の中には「ああいうのも含めて注目だ」「敵が焦ってる証拠だ」と言う者もいた。勢いづいた声で、むしろ燃料だと笑う者もいた。だが、その笑いはどこか空疎で、目の奥には怯えがあった。誰も本当には慣れていなかった。

    ケイも、慣れていなかった。自分が政治の世界に入ったとき、もっと別のものを想像していた。怒りはあった。既存のものへの反発もあった。だがそれは、言葉で争うことだと思っていた。演説をし、反論し、拍手があり、落胆があり、票があり、結果がある。そういう、少なくとも表向きは人間の形をした争いだと思っていた。

    けれど、あの集団が現れてから、何かが変わった。街頭は、議論の場所ではなくなった。声の小さい者、押しのけられる者、挑発に耐え切れない者、切り取られやすい表情をした者が負ける場所になった。政策は短く削られ、感情だけが残った。誰が何を実現したいのかではなく、誰がより憎しみや恐怖を呼び起こせるかが勝負になっていく。ケイはその空気に、何度も胃の底をつかまれるような気持ちになった。

    夜、家に帰っても、喉の奥に黒い煤がたまっているようだった。夫は食卓で「大丈夫か」と聞いた。なるべく軽く聞こうとしているのがわかる声だった。ケイは「うん」と答えたが、その「うん」は、口の中で乾いていた。味噌汁の湯気が目にしみた。テレビでは別の選挙区の情勢が流れていた。どの候補が優勢で、どの候補が追い上げ、どの陣営に風が吹いているか。解説者が、もっともらしい顔で数字を並べていた。

    やがて、ケイの選挙区も取り上げられるようになった。革新系の現職がわずかに先行し、保守系の新人が激しく追い上げる。ケイは懸命に追う展開で、他の新興政党や無所属の候補は伸び悩んでいるとの報道だった。

ケイは自分の顔がテレビに映るのを見た。駅前でマイクを握り、必死に訴えている。口は確かに動いているのに、何を言っているのか自分でも聞こえなかった。無音の映像のようだった。

    真兵は「逆転可能」と言った。「ゼロから短期間でここまで数字を作った。これはいける」と
    浩一は「絶対に勝っている。メディアは操作されている」と吐き捨てた。
    ミキは「まだまだここから」と励ました。

    だがケイには、それぞれの言葉が、少しずつ違う種類の逃避に見えた。


    選挙が終盤に入ると、警察の数が目に見えて増えた。制服の青が、街のあちこちに立つようになった。報道も増えた。大きなカメラを肩にかついだ男、マイクに局名のシールを貼った女、腕章をつけた若いスタッフ。誰もが、何かが起こるのを待っているように見えた。

    それは気のせいではなかったのだろう。すでに「何かが起こる選挙区」という空気が出来上がっていた。候補者本人の人気や政策だけではなく、取り巻く支持者の熱、対立する陣営の挑発、現場の混乱、そのすべてが込みで消費され始めていた。ニュース番組は「過熱する選挙戦」と言い、情報番組は「分断の最前線」と呼んだ。ケイは、自分が候補者である前に、ひとつの見世物になっていくのを感じた。

    最終日、空は朝から妙に高かった。沿道には、いつもよりはっきりと人がいた。支持者、通行人、暇つぶしの若者、スマホを持った配信者、新聞記者、テレビのカメラ。警察官も多い。交差点ごとに、何人も立っている。交通整理のためというには数が多すぎた。

    黒と赤の集団は、昼過ぎに現れた。最初に見えたのは旗の先だった。建物の隙間から、赤がちらついた。つづいて黒。波打つように何本も持ち上がり、人の頭の上を移動してくる。太鼓のような打音が聞こえた。叫び声というより、訓練された掛け声に近い声が重なる。ケイの背中に、冷たいものが走った。

    彼らは前回よりも派手だった。数も多い。衣装めいた統一感があり、プラカードの文句もさらに煽情的だった。誰かが路上に寝転ぶ。誰かが泣き叫ぶ演技をする。誰かが選挙カーの前にすれすれまで出て、こちらを指さしながら大声で何かを叫ぶ。仲間はそれを囲んで撮る。周りの群衆も撮る。警察は割って入る。押し返される。さらに押し返される。その一連が、まるで初めから脚本にあったように流れていく。

    ケイはマイクを握っていたが、手の中のプラスチックはもう自分のものではないみたいだった。運転している夫を見ると、かなりゆっくり車を動かしながら、広い幹線道路に向かおうとしていた。だが車はほとんど進まない。左右から人が寄り、前には警官と旗の列が詰まり、後ろにも別の群れがついていた。支持者たちはケイを守ろうとして前へ出る。相手側はそれを待っていたようにさらに煽る。指が胸に当たる。腕がはねのける。怒鳴り声が重なる。

    周囲の観衆は騒ぎを面白がり、カメラはそれを固定し、警察は抑えようとし、メディアはさらに寄ってくる。そうしてできあがった熱は、もう誰も制御できなかった。正義も怒りも思想もなく、ただ「ここで何か起きろ」という期待だけが膨らんでいた。人は、こんな顔をするのだ、とケイは思った。笑っているのに目が笑っていない顔。怒っているのに、その怒りの行き先を自分でも知らない顔。なにかの瞬間を待っている顔。歴史の当事者になりたいのではなく、映像の一部になりたい顔。

    車が完全に止まった。

    前方で、小競り合いが始まっていた。肩がぶつかり、腕が払われ、誰かの帽子が落ちる。支える手が逆に押す手になり、その押す手を止めようとする別の手が首筋にかかる。ほんの些細な接触のはずなのに、周囲が「今だ」と言わんばかりに騒ぎ立てるせいで、事態は一気に大きく見えていく。

    夫がケイを見た。あの人は、昔からそういう目をする。決めたときの目だ。家庭の中では穏やかで、いつも半歩引いた場所にいる人なのに、何かが本当に危ないと判断したときだけ、急にまっすぐになる。ケイは「だめ」と言おうとした。だが夫はすでにドアに手をかけていた。

「止めてくる」

    短くそう言って、夫は車を降りた。

    ケイも、気がついたときには反対側のドアを開けていた。誰かが止める声がした。支持者のひとりが「危ないです」と叫んだ。警察官がこちらへ来るのが見えた。けれど、車の上に乗ったままでは、この濁った熱の中心から永遠に切り離される気がした。自分の選挙なのに、自分の名前で人がぶつかっているのに、自分だけ安全な箱の上にいることに耐えられなかった。

    音が一気に近くなった。怒鳴り声、笛、カメラのシャッター、マイクのハウリング、警官の制止、誰かの泣き声、誰かの笑い声。匂いも混ざっていた。汗、排気ガス、コンビニの揚げ物、道路の熱、整髪料、安い香水。人間が多すぎる場所の匂いだった。夫は両手を広げ、双方の間に入ろうとしていた。「やめてください」「離れてください」と言っていた。声は通っていたが、飲み込まれていた。相手側の中心にいた男が、ケイの目に入った。年齢はよくわからない。三十代にも四十代にも見える顔だった。頬はこけ、目だけが妙にぎらついていた。怒っているというより、舞台に上がっている顔だった。

    その男が、夫の方へ何かを叫びながら近づいた。ケイには言葉が聞き取れなかった。男の口の形だけが見えた。挑発的に歪む唇。まわりの仲間がスマホを構える。誰かが「行け」と笑う。誰かが「撮れてる」と言う。警官が間に入ろうとする、その一瞬早く、男の腕が動いた。

    鈍い音がした。肉に拳がめりこんだ、ごく短い、嫌な音だった。夫の体がくの字に折れた。呼吸が抜けたような顔をして、そのまま膝から崩れた。道路に手をつく音が、妙にはっきり聞こえた。

    世界が、そこで一度、止まった。

    ケイは走ったつもりだったが、自分がどう動いたのかわからなかった。夫の名を呼んだはずなのに、声になっていなかったかもしれない。膝をつき、肩に手を置く。夫の顔は青白く、口元がひきつっていた。息を吸おうとして吸えず、水の外に投げ出された魚のように体が小さく震えていた。

    警察官たちが一斉に男に飛びかかった。腕をねじり、地面に押しつけ、取り囲む。男は抵抗しているようでもあり、していないようでもあった。計算ずくで暴れる者の動きだった。周囲から歓声のような叫びが上がる。誰かが「やったぞ」と怒鳴り、誰かが「正当防衛だ」と叫び、誰かが「映ってるぞ」と笑った。

    ケイは夫の名をもう一度呼んだ。今度は声になった。喉が裂けるような声だった。

    そのとき、視界の端に男の顔が入った。

    警察官に両腕をつかまれ、半ば吊られるようにして連れていかれながら、その男は、少しだけ首をひねった。仲間の方を見たのだ。仲間たちは、何台ものスマホをこちらへ向けていた。男はそのカメラに向かって笑っていた。。そして、片手の指を無理やり開くようにして、ピースサインを作っていた。

    それは勝利の記号だった。反省でも、弁明でも、錯乱でもない。自分は「やった」、そして「撮らせた」、という顔だった。

その瞬間、ケイの中で何かが焼き切れた。

    自分が何を叫んだのか、正確には覚えていない。覚えているのは、口から出た言葉が、これまで自分が使ったことのない種類のものだったことだけだ。汚く、激しく、人間を人間として扱わない言葉。テレビの向こう側でしか聞いたことのない、底の抜けた罵倒。喉が裂けても構わないと思った。言葉が足りなかった。どれだけ言っても足りなかった。

    ケイは男に向かって突進した。隆夫の大きな体がケイを遮ろうとしたが、ケイはそれを突き飛ばして男のもとへ突進した。

    誰かが後ろから腕をつかんだ。支持者だったのか、警官だったのか分からない。さらに別の誰かが腰を抱えた。足がもつれた。それでも前へ出ようとした。爪が誰かの服を引っかいた。肩が痛んだ。髪が乱れた。涙が出ていたのか、怒りで目が潤んでいたのか分からなかった。視界の中心にはただ、あの男の顔だけがあった。

    この様子はマスメディアのカメラや通行人のスマートフォン、そして黒と赤の集団の無数のカメラによって撮られ、録画され、ニュース番組とSNSで拡散された。そうして数億回の閲覧回数と数万件のコメントが付き、識者やインフルエンサーの際限のない言い争いの中で、ケイの選挙最終日は終わっていった。

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