第10章 ケイの白藍な第一声
公示日の二日前、事務所のドアが開いたとき、ケイは思わず背筋を伸ばした。二十人ほどの男女が、整然と並んで立っていたのだ。
「本日より、選挙のお手伝いをさせていただきます」
入ってきたのは、二十人ほどの男女だった。服装はゆったりとしているが、だらしなさはない。淡い色のジャケット、質の良さそうなシャツ。髪は整えられ、靴は磨かれている。先頭に立っていたのは、ひとりの老女だった。白に近い銀髪をきれいにまとめ、薄い藤色のセットアップを着ている。姿勢がよく、目は静かで、よく澄んでいた。裕福で、知的で、落ち着いている。
「はじめまして」
老女は深く一礼した。
「わたくしたちは、市内で活動している団体の者です。このたび、あなたの掲げる理念に深く共鳴いたしました」
声は穏やかで、無理がない。ケイはその眼差しを受け止めながら、胸の奥に小さなざわめきを覚えた。真兵が補足する。
「宗教団体の皆さんです。政策を支持してくださっています」
宗教団体。その言葉は、説明になっているようで、なっていない。老女は微笑んだ。
「既存の政治に、長く失望してまいりました。しかし、あなたの言葉には、誠実さを感じました」
「具体的には、どのようなお手伝いを?」
「主にポスター貼りを担当いたします。規則は熟知しておりますので、ご安心ください」
即答だった。地図を広げると、団体の若い女性が素早くペンを取り、担当区域を確認する。動きは滑らかで、迷いがない。経験がある。
この選挙には、すでに多様な人々が集まっている。怒りを抱えた若者、神秘を信じる事業家、怒りをためたキャリア女性、国を守りたい農家。そこに、さらに別の色が加わる。
整然とした集団。一糸乱れぬ頷き。だが、カオスは拡張している。
届け出は粛々と終わった。候補者証を受け取った瞬間、ケイは自分の名が公的なものになったことを理解した。事務所前に、陣営のメンバーが集まる。従来の支持者、学生ボランティア、そして宗教団体の面々。オレンジの旗が立つ。ケイは簡易の台に上がった。
これは有権者への第一声であるが、ここにいる者たちへの言葉でもある。目の前にあるのは、統一されていない人々だ。怒り、信仰、孤独、理屈、正義感、野心。それぞれが違う動機で、同じ旗の下に立っている。
「わたしたちは、恥ずかしくない選挙をします」
静まり返る。
「どんな選挙をするかは、どんな政治をするかと同じです」
真兵が腕を組んで聞いている。ミキは唇を結ぶ。
「堂々とした選挙をする政治家は、堂々とした政治をします。卑怯な選挙をする政治家は、卑怯な政治をします。不正をしない。脅さない。隠さない。自分の心に、恥ずかしくない行動をする」
「行きましょう」
街頭演説へ向かう車が動き出した。その頃
SNSで話題になっている団体があった。黒地に赤い竜胆の紋様。花弁は鋭く、炎のようにも、血の飛沫のようにも見える。公式な団体名は見当たらない。代表者の顔も出ない。
だが、やっていることは一貫していた。
ある動画では、別の候補者の街頭演説に至近距離でカメラを向け、拡声器で声をかき消している。別の動画では、演説後の候補者を囲み、質問と称して罵声を浴びせ続ける。語気は攻撃的だ。誰かが声を荒らげれば、それを即座に撮影し、「暴力的だ」と切り取って拡散する。
また別の日には、企業に向けた呼びかけが投稿される。
「この候補を支援する会社は不買対象にする」
ハッシュタグが並ぶ。解雇、契約解除、スポンサー撤退。直接殴ることは少ない。だが社会的な圧力をかける術を熟知している。ある投稿には、こう書かれていた。
「正義には、痛みが伴う」
自分たちの怒号は「正当な抗議」相手の反論は「ヘイト」。線引きは、常に彼らの側にある。
彼らは、黒地の四角いシールを街のそこかしこに貼り付けていった。夜の歩道橋。商店街の掲示板。ガードレールの裏側。
公示日の夜九時を過ぎたころ、事務所の空気が変わった。
「サヤが襲われたらしい」
真兵がスマートフォンを握ったまま言う。最初は匿名アカウントの投稿。次に、サヤ本人からの短い電話。
「囲まれただけ。怪我はない」
だが声は震えていた。テレビは沈黙している。
党首から電話が入った。党の女性候補を主なターゲットにしているらしい、ただちに対策を練るようにとのことだった。
事務所の中で議論が始まる。
隆夫は怒りを明確にした。
「ガキみたいな真似しやがって、卑怯な奴らだ。現場で俺が止めてやる。こっちは畑で鍛えてんだ、警察を呼ぶのもいいが、まず舐められたら終わりだ。何人来ようが俺の相手じゃない」
リエは完全に怯えている。
「もう無理、こういうの外国人とかも関係してるよね、家まで特定されたらどうするの。明日からやっていけないよ。」
ミホも同じだ
「これ、ニュースにならないの?職場とかに来られたら子供に危険が及ぶよね?警察に連絡した方がいいと思う。ネットで見たんだけどボディカメラとかみんな付けた方がよくない?」
マイはリエをなだめつつ、ミホに反論した
「甘いよ、向こうは”正義”に名でやってくる。止まらないよ。マスコミは報道してない。警察だって動かないよ。結局、自分の身は自分で守らないといけない。目立ちたがりのアホども、街宣にやってくるに決まってるんだからさ、こっちも人数出して壁を作ろう、相手の顔全部撮って晒してやろうよ。暴力はダメだけど、徹底抗戦だよ」
アユはマイペースだった。この人はいつも変わらない
「これは対立の構図に入った瞬間に、もう相手のフィールドにいるんです。観測したものが事実になりますから、私たちが彼らを”敵”と観測すると、それが事実になります。怒りの波動をぶつけてこられても同じ土俵に立っちゃダメ。その周波数には合わせない。優しさの魂を合わせていきましょう」
ケイは別室で自分との対話を行っていた。乱れ、不調、その真因は何か。対話の末、事務所に置いていたレメディを1つ取り、口にした。そうして皆の議論の中に現れた。
「彼らから逃げることはしません。でも対抗することもしません。どんな選挙をするかはどんな政治をするかと同じです。テレビで報道されなくても、SNSでどういう言われ方をしても、この街の人たち、有権者たちは私を、そして彼らを見ています。ですから、ただ堂々と選挙をしましょう。各々が自分の身だけを守るように」
皆が納得した。
明日以降の自衛策について話し合いが持たれ、解散となった。ケイは夫と一緒に帰路についた。駐車場に移動し、車に乗る。
「こんなことになっちゃって、本当にごめんね」
ケイは言った。
「面倒なことになったなとは思う。でもちょっとワクワクする気持ちもあるな、こんな経験する人、なかなかいないじゃない」
夫はいつも自分の気持ちに寄り添ってくれる。嬉しい気持ちで一杯だった。
夜の町、走り去る車。しかし、道路標識のポールには黒く四角いシールが貼られていた。

