AI小説「ケイのオレンジ・ライフ」第9章

実験室

第9章    ケイの青赤の通帳

事務所の体制は、ある日を境に、はっきりと切り替わった。真兵が、正式に事務所の指揮を執ることになったのだ。これまでも実質的には中心にいたが、これからは名実ともに現場の責任者だと、全員に共有された。

真兵の声は淡々としていた。熱量で人を動かすタイプではない。けれど、言葉が少ないぶん、決めるところは決めるという圧があった。誰がいつ、何をして、何をしないか。そこに曖昧さを残さない。ケイは、その整理の速さに少し救われてもいた。迷いが少ないほど、自分が迷っていることが目立たなくなるからだ。

続いて、ミキがサブリーダーに指名された。真兵が不在の時は、ミキが現場をまとめる。誰も驚かなかったし、反対の声もなかった。ミキ自身も「分かりました」と短く答え、すぐにメモを取り始めた。ミキは、笑顔で場をつなぐタイプではない。しかし、手が止まらない。聞き漏らさない。曖昧な部分を曖昧なままにしない。こういう人が現場を回すのだとケイは思った。熱よりも、整える力。誰かが興奮しても、机の上を水平に戻せる力。

そして、ケイの呼ばれ方についても決まった。今後、事務所内ではケイを「候補者」と呼ぶ。真兵がそう告げた時、ケイは小さくうなずいた。異論を挟む余地はなかったし、挟む理由もなかった。ただ、その言葉が、自分と他の人たちの間に一本の線を引いたように感じられた。


選挙資金が党から配分された。

金額を確認すると、すぐに問題が浮き彫りになった。インフレの影響で、想定していた費用が軒並み上がっていた。ガソリン代、印刷費、人件費。どれも上がっているのに、制度のほうは何も変わっていない。上がった現実に、古い物差しを当てているだけだった。会計担当のクミが紙をめくりながら言った。

「去年の相場で組んだ見積もりなんです。いまの値段だと、同じことをするだけで足が出ます。通帳の色は青なのに出てくるのは赤字です」

誰かが笑い混じりに言った。

「そのうち選挙中に飯も食えなくなるね」

ケイが顔を上げると、ミホが続けた。

「ほら、スタッフの食事代も一人千円を超えたらダメってやつ。いま普通に昼を食べたら千円って、わりとすぐ超えるでしょ」

隆夫が、冗談みたいに首を振った。

「インフレは進むのに、千円のまま。いつの千円だよって話だよな」

笑いは起きたが、軽い笑いではなかった。リエは隅で頭を抱えていた。制度が“清廉さ”を守ろうとしているのは分かる。けれど、値段だけが上がる現実の中で、その清廉さは、現場に「削る場所」を命じる。

削られるのは、まず移動だった。ガソリン代が上がれば、選挙カーの稼働時間は短くなる。遠い地域の挨拶回りも減る。街頭演説の回数も、移動の回数も、じわじわと目に見えないところで縮む。次に削られるのは、紙だった。ビラの印刷費にも制限がある。価格が上がれば、同じ予算で刷れる枚数は減る。枚数が減れば、配り方を変えざるを得ない。配り方を変えれば、届く層が偏る。「やる気」では補えない部分が、淡々と削られていく。

真兵は、その話を冷静にまとめた。

「制度が想定している“標準的な選挙”が、もう現実とズレてきてる。ズレたまま走らされると、結局、活動量が落ちる」

ケイは、その言葉の先を考えてしまった。活動量が落ちるのは、全員に平等なのだろうか。

「結局さ、ここで差がつくんだよね」

ぽつりと誰かが言った。

「後援会が強い人とか、献金が集まる人とか、個人資金がある人。そういう人は、制度の“上限”の外側で動ける」

言い方は穏やかだったが、内容は鋭かった。制度が守ろうとしているのは、公平さのはずだ。だが、制度が現実に追いつかないとき、公平さは別の形で歪む。“上限の中でやりくりできる人”ではなく、“上限の外に逃げられる人”が有利になる。ケイは、喉の奥が少し乾くのを感じた。

政治家が私費で穴埋めできるほど、選挙は安定する。後援会や献金が強いほど、選挙は安定する。そして安定が、そのまま勝ちやすさに繋がる。それはつまり、政治が「誰に開かれているか」という話だった。志があるかどうかではなく、払えるかどうか。耐えられるかどうか。支えられるかどうか。ケイは、手元の数字を見つめ直した。この数字は、ただの予算表ではない。誰が政治をできるかを、静かに決めてしまう表でもあるのかもしれなかった。


その夜、ケイは夫と向き合って話をした。

「家からお金を出す約束はしないよ」

夫はそう前置きした上で、続けた。

「でも、有給は使える。選挙期間中、俺が運転する」

選挙カーの運転手を引き受ける。そのために、有給休暇をまとめて取るという。それは金銭そのものではなかったが、結果的に大きな助けだった。運転手を雇う必要がなくなり、費用の一部が解消された。

「ありがとう」

そう言うと、夫は少し照れたように視線を外した。


次に問題になったのは、ウグイス嬢だった。

なり手がいない。最低賃金が毎年上がる一方で、ウグイス嬢の日当の上限は長く据え置かれたままだった。

「このままだと、次の選挙では最低賃金を下回るかもしれないね」

誰かがそう言ったが、冗談にはならなかった。“政治を変える”と言いながら、政治が決めた賃金の上昇に、現場が追いつけない。皮肉のようで、ただの現実だった。

沈黙の中で、アユが口を開いた。

「私でよければ、やります」

驚いた表情を向けるケイに、アユは少し笑って言った。

「ケイさんが一人で前に立つなら、誰かは後ろで支えないと。私、そういう役のほうが向いてるし」

その言い方は、背伸びしている感じがしなかった。アユは、いつも“痛いところ”を分かっている。誰かの弱さを責めるのではなく、そこにそっと手を当てる。


広告費についての議論は、最後までまとまらなかった。「足りない」という認識だけが共有され、具体策は出ないまま時間が過ぎた。

その間、浩一は一言も発しなかった。議論が一段落したところで、浩一が言った。

「俺が何とかする」

翌日から、ネット広告の量が明らかに増えた。通常の三倍は流れているように見えた。ケイは、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

——こんなに簡単に増えるものなの?

「何をしたの?」

浩一にそう聞くと、彼は軽く笑って答えた。

「大丈夫。最後の戦いだから」

それ以上は語らなかった。ケイは触れてはいけないものを感じた。


数日後、ケイは真兵とともに選挙管理委員会の説明会に出席した。会場には、対立候補になるであろう陣営の関係者や、テレビで見たことのある現職議員の姿もあった。ケイは緊張していた。自分の服装が浮いていないか、立ち方が変じゃないか、視線の置き場が分からない。

“候補者”という言葉が、ここでは急に重くなる。

一方で、真兵は落ち着いていた。自然な調子で他陣営のコンサルタントや候補者とあいさつを交わしていた。その様子を見て、ケイは肩身の狭さを感じた。

私は、何も知らない。知らないまま、ここに立っている。

それでも、選挙は始まる。

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