AI小説「ケイのオレンジ・ライフ」第6章

実験室

ケイのシュワルツ・ロッド・ゴルトな接待

ケイは愛校心が強い。それは誰に強制されたものでも、誰かに教えられたものでもなかった。ただ、気づけば毎年OB会の案内に目を通し、予定が合えば顔を出している。会場で旧友と近況を交わし、最後には決まって校歌を歌う。いつも同じ流れだった。歌詞は全て覚えている。旋律が流れ出すと、身体のほうが先に反応する。胸の奥がわずかに緩み、時間が一段、後ろに引き戻される。

その日の午後、事務所は珍しく静かだった。
電話も鳴らず、人の出入りもない。ケイは机の上に積まれた書類を整理しながら、無意識のうちにその校歌を鼻歌でなぞっていた。

「……今の」

声に気づいて顔を上げると、奥の席の真兵がこちらを見ていた。キーボードに置いた手が止まっている。

「今、歌ってた曲です」
「え?」
「僕の出身大学の校歌と、同じメロディーです」

意外な言葉だった。
ケイは一瞬、聞き間違いかと思った。真兵はアメリカの大学出身のはずだ、自分の後輩ではないはず。

「本当に?」
「ええ。歌詞は違いますけど。元はヨーロッパの古い曲だったはずです」

そう言って、真兵は少し照れたように視線を外し、英語の歌詞で数小節だけ口ずさんだ。
確かに同じ旋律だった。ケイは思わず笑ってしまった。

「やっぱり、そういうことなのね」
「どういうことですか」
「うちの校歌も、確か同じ曲が元だって聞いたことがあるの、ドイツの曲」

二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。思想でも、価値観でもない。ただの偶然。ただの一致。それなのに、不思議と距離が縮まった気がした。

「私ね」

ケイは何気なく続けた。

「ドイツの家具が好きなの。重くて、静かで、派手じゃないけど、長く使うほど馴染んでくるでしょう」
「らしいですね」
「何年か前には、直接見に行ったこともあるのよ」
「家具を見に?」
「ええ、自分で見て、自分で選んで、自分で買うの。交渉も自分でする」

真兵は少し驚いたようだったが、すぐに納得したように頷いた。窓の外では、陽が傾き始めていた。ガラス越しの光が室内を淡く染め、時間がゆっくりとほどけていく。ケイは心の中で、もう一度あの旋律をなぞった。

――世界のどこかで、同じメロディーを、別の言葉で歌ってきた人がいる。

誇るべき物語でも、特別な縁でもない。けれど、自分がどこから来たのかを、説明せずに思い出させてくれる。これまで真兵とは馴染めないでいたが、少し仲良くなれた気持ちだった。



数日後、その電話は、午後の遅い時間にかかってきた。

「ケイさん」

党首の声だった。挨拶は短く、前置きもない。

「ドイツの友党から、副党首が来日します」
「はあ」
「明後日です」

ケイは電話ごしに首をひねった。明後日に来るからなんなのだろう。

「あなた、ドイツ語を少し話せるそうですね」
「……少し、ですが」
「家具を買いに行くくらいには」

そこまで把握されているとは思っていなかった。誰がそんなことを――と考えかけて、ケイは思い当たった。真兵しかいない。

「接待をお願いしたいんです」
「え、私が?」
「ミキさんも一緒に。お二人で」

断る余地は、用意されていなかった。

「通訳はつきますが」

党首は続けた。

「最初の空気づくりは、人がやったほうがいい。頼みましたよ」

電話は、それだけで切れた。

ミキに事情を説明すると、彼女も固まった。

「副党首?」
「そう」
「ドイツの?」
「そう」
二人は同時に、ため息をついた。

「ドイツ語、どのくらい話せます?」
「買い物と、道を聞くくらい」
「それ、接待レベルじゃないですよね」
「ええ、ミキは?」
「大学に入って最初の半年で諦めた」

それでも準備は始まった。ミキは必死に過去の発言や政策を調べ、ケイは頭の中で、使えそうなドイツ語のフレーズを転がした。

当日、現れた副党首は、写真で見るよりもずっと存在感があった。金髪をきっちりとまとめ、濃い色のジャケットを纏い、姿勢がよい。表情は硬質だが、目の奥は鋭く、よく笑いそうでもあった。ケイは思った。

――強い人だ。

挨拶は無難に始まった。ケイは簡単なドイツ語で歓迎の言葉を述べ、副党首は丁寧に応じる。だが、その後が続かない。話題は政策に寄り、通訳を介する言葉は慎重になり、場の空気は次第に重くなっていった。誰も失礼なことは言っていない。だからこそ、間が埋まらない。ミキが、明らかに焦り始めていた。

(これは、まずい)

沈黙が訪れかけた、そのとき。

「……ねえ」

ミキが、小さく、しかしはっきり言った。

「校歌、歌いません?」

ケイは目を見開いた。

「今?」
「今です」
「どういう――」
「いいから」

完全にやぶれかぶれだった。

ミキは通訳に向かって、勢いだけで説明した。

「私たちの大学の歌です。とても大事なものです」

通訳は首を傾げたが、副党首は興味を示したようだった。ケイは腹をくくった。小さく息を吸い、あの旋律を歌い始める。声は震えなかった。何度も歌ってきた歌だった。すると、二小節目に入ったあたりで副党首の表情が、はっきりと変わった。目を見開き、次の瞬間、通訳を制して歌い始めた。言葉は違う。けれど、旋律は完全に同じだった。歌が終わると、副党首は立ち上がり、ためらいなくケイとミキを抱きしめた。

「Danke. Wirklich danke.」

ありがとう。本当に、ありがとう。その声は、感情を隠していなかった。ミキは完全に固まり、ケイは思わず笑ってしまった。その後の空気は、別物だった。副党首は学生時代の話をし、ケイは片言のドイツ語で応じ、ミキは身振り手振りで加わった。笑いが起こり、時間が流れた。接待が終わる頃、副党首は何度も頷きながら言った。

「今日は、忘れられない日になりました」

控室に戻ると、ミキが崩れ落ちるように椅子に座った。

「……校歌って」
「ええ」
「外交ツールですね」
「たまたまよ」

そう言いながら、ケイは思っていた。
歌は、説明を必要としない。
時間を越えて、人を結びつける。

ケイのトリコロールな党大会

党大会への参加は、要請というより既定事項のようだった。

「ケイさんも、ぜひ」

党首はそう言って、会場となるホテルの名前を告げた。

会場は、都内でもよく知られたホテルだった。テレビのニュースや、結婚式の特集番組で何度も見たことのある場所。重厚なロビーに足を踏み入れた瞬間、ケイはその重厚さとは場違いな慌ただしさを感じた。エスカレーターの脇には党のロゴが掲げられ、スタッフが慌ただしく行き交っている。受付を済ませると、まず一階のフロアへ案内された。

扉が開いた途端、空気が変わった。

照明は落とされ、音楽が流れ、壁一面のスクリーンには映像が映し出されている。党の広報ビデオに続き、野球やサッカーの日本代表が勝利する場面がテンポよく編集され、歓声と拍手が起こる。

まるでライブパーティーだった。人々はグラスを手に立ち話をし、肩を叩き合い、同じ映像に同時に反応している。理屈はなく、感情だけが共有されていた。司会台の近くでは、サヤが進行を務めていた。落ち着いた声で場を回し、冗談を交えながら、自然に拍手を誘導している。その手際の良さに、ケイは思わず感心した。

そのとき、誰かに強く肩を叩かれた。

「ケイさん!」

浩一だった。顔は紅潮し、目が異様に輝いている。

「すごいだろ、ここ」
「……すごいわね」

浩一はケイの返事を待たず、早口で話し始めた。

「分かるか?    これ」

彼はスクリーンを指さした。

「みんな、もう気づいてるんだよ。この国、おかしいって」

ケイは黙って聞いた。

「でもさ、気づいてないふりしてるやつも多い。騙されてるんだ」

浩一は身を乗り出した。

「俺たちは違う。分かってる側だろ?」

ケイは曖昧に笑った。

「今はまだ準備段階なんだよ」

浩一は続ける。

「金も、人も、ちゃんと集めてさ。いずれ、全部ひっくり返る」

彼の言葉は断片的で、ところどころ飛躍していたが、本人はそれを一つの壮大な物語として信じているようだった。

「政治も、経済もさ、俺たちが表に出る番が来る」

その目は、興奮と不安が入り混じっていた。ケイは、その視線を正面から受け止めきれず、少し視線を逸らした。そこへ、ミホがやってきた。

「ケイさん!」

彼女もまた、高揚した様子だった。

「すごい人ね。こんなに集まるなんて」

二人は短く言葉を交わした。同じ空間にいながら、感じているものは微妙に違っている。ケイはそのズレを、はっきりと意識していた。

「ケイさん、2階へ移動をお願いします」

案内係に声をかけられた。ケイは、一階の熱気を背に、エスカレーターへ向かった。

二階のフロアは、一階とは別世界だった。照明は明るく、音楽はない。椅子が整然と並べられ、前方には演台とスクリーンが設置されている。スクリーンには政策資料やグラフが映し出され、政策発表会が行われていた。登壇者は落ち着いた口調で説明をし、参加者たちは資料に目を落とし、メモを取っている。拍手はあるが、控えめだった。

前方の席に、クミの姿があった。背筋を伸ばし、真剣な表情で話を聞き、ときおり手を挙げて質問をしている。ケイは、その姿に一瞬、見入った。一階で見た熱狂とは違う。ここでは感情よりも、整合性が求められている。言葉は慎重に選ばれ、相手を説得するために使われている。質疑応答が続く中、ケイはふと思った。同じ党大会なのに、まるで別の国に来たようだ、と。

休憩時間、クミと目が合った。

「ケイさん」
「こんにちは、大活躍じゃない」

短い挨拶だけだったが、クミの表情は充実していた。ここが自分の居場所だと、はっきり分かっている顔だった。ケイは、その確信に少し圧倒された。一階では、浩一が夢を語っていた。二階では、クミが現実を語っている。

どちらも、この党の一部だ。
どちらも、同じ時間に、同じ建物の中にいる。

党首が声をかけてきた。

「ケイさん、最上階へ行きましょう」

最上階へ向かうエレベーターは、二度乗り換えが必要だった。上へ向かうにつれ、党首の顔が緊張していくのにケイは気が付いた。

扉が開くと、空気が違った。音がないわけではない。ただ、音が前に出てこない。低い声、グラスの触れ合う音、控えめな笑い声が、厚い絨毯に吸い込まれている。部屋は広く、窓からは都内の夜景が見下ろせた。

集まっている顔ぶれは、すぐに分かった。一階や二階にいた人たちとは、服の質も、立ち居振る舞いも、視線の置き方も違う。

健康食品会社の老オーナー、製紙会社の御曹司、かつて名を馳せたIT起業家、ホテルと不動産で成功した女社長、福祉事業の社会起業家、有名コーヒーチェーンの創業者、そしてここに来るまでの地下鉄の中で見た広告。その新興宗教の指導者も。

ケイが紹介されると、会話は自然と一つの円を描いた。

「あなたは、ホメオパシーへの承認を求めていたね」

老オーナーが言った。声は柔らかいが、質問は具体的だった。

「どういう層に、どう届いているんですか」
「体調不良ですか、それとも不安ですか」
「継続率は?」

ケイは、分かる範囲で答えた。誰も遮らない。誰も感情を挟まない。質問は次々に飛ぶが、同じ点には戻らない。

「サプリメントとの親和性は高いですね」
「“治療”と名乗らなければ、いける」
「福祉事業としての導線も作れそうだ」
「高齢者層には、信頼感がある」
「ホテルのラウンジで、体験会とか」
「健康と癒やし、相性は悪くないわ」

話は、自然と制度の話へ移っていった。

「現行法だと、広告表現が問題になる」

「なら、定義をずらせばいい」
「“予防”という言葉は強い」

新興宗教の指導者が、静かに言った。

「言葉は、人を救う道具です」
「使い方を誤らなければ」

誰も反論しない。誰も正義を語らない。生々しい案も出た。明らかに社会全体の利益にはならないものもあった。だが、それを咎める声はない。否定も、肯定もされないまま、話題は次へ移る。

ケイは、自分が試されていることに気づいていた。意見を求められているわけではない。どこまで耐えられるかを、見られている。

「あなたは、いい位置にいますね」

そう言ったのは、コーヒーチェーンの創業者だった。

「前に出すぎない」
「でも、物語はある」

IT起業家が続ける。

「顔があるのは、強い」
「中身は、あとで調整できる」

女社長が、グラスを掲げる。

「まずは、当選しましょう」
「その先の話は、それから」

励ましのようで、計画の一部のようでもあった。ケイは、曖昧に微笑むことしか出来なかった。

党首がささやいた。

「次の候補者もあるので、また下へ」

ケイも一緒に会場を後にした。誰かに引き留められることも、特別な挨拶を求められることもない。それが、このフロアの流儀なのだろう。エレベーターに乗り込む。扉が閉まる直前、都内の夜景が一瞬だけ視界に残った。整然と並ぶ光は、どこか無機質で、遠かった。

下降する感覚は、上ってきたときよりも短く感じられた。重力が戻ってくるような、不思議な安心感があった。党首の緊張もやわらいでいるようだった。ロビーを抜け、ホテルの外に出ると、夜の空気が頬に触れた。車の音、人の声、信号の音。世界はいつも通りに動いている。

「ケイ」

声をかけられて振り向くと、ミキが立っていた。少し興奮した様子で、頬が赤い。

「今、終わった?」
「いえ、まだだけどもういいかなって。一番下のフロアにいたけど熱気が凄かった」

二人は並んで、ホテルの入口から少し離れたところまで歩いた。

「私ね、三つのフロア全部に行ったの。あの党首に連れられて」
「どうだった?」

ミキが聞いた。ケイは少し考えてから、答えた。

「ホテルを縦に移動しただけなのに」

一拍置いて、続ける。

「世界旅行をしたみたいだった」

ミキは一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。

「なにそれ」
「でしょう、なかなかない経験だった」

二人は笑いながら、今日あった出来事を語り合った。もうすぐ夏が来る。今年も猛暑らしい。

第7章へ