ケイの朱鷺色の演説
会場に足を踏み入れた瞬間、ケイは思わずたじろいだ。前回よりも人が多い。壁にはオレンジ色ののぼりが何本も並び、紙で作った飾りまで吊るされている。スピーカーからは元気すぎるテーマソングが流れ、受付のスタッフは全員笑顔だ。
「おかえりなさい、ケイさん!」
声をかけられて、ケイは少し戸惑った。前に一度来ただけなのに、名前を覚えられている。
「え、あ、どうも……」
首をすくめながら名札を受け取ると、スタッフが目を輝かせて言った。
「今日はグループワークなんですよ! “地域の食と健康を考える”がテーマです!」
ケイの胸の奥に、うっすらと興味と緊張が入り混じった感覚が走る。前回はほとんど聞き役だった。今回は少し話してみよう――そんな気がしていた。ホールの中は熱気に満ちていた。机がいくつも並び、紙コップの麦茶やオレンジ色のペンが整然と並んでいる。会場の空調は効いているはずなのに、なぜか蒸し暑い。どのテーブルでも話し声が飛び交い、笑い声が重なっていた。
「ケイさーん、こっち!」
声の主はミキだった。手を振りながら、彼女はケイを呼び寄せた。
「今日はこの班にクミさんと隆夫さんもいるの。二人ともすごく詳しいから、勉強になるよ!」
ケイが近づくと、すでにクミと隆夫は席についており、何やら分厚いプリントを広げて熱心に話していた。クミは細身の体にリネンのシャツを羽織り、手書きのノートにびっしりとメモを書いている。隆夫は日に焼けた腕を組み、農協の名が入った帽子を膝に置いていた。
「初めまして、ケイさん? 聞いてるわよ。前回の感想がすごく良かったって!」
クミが笑顔で手を差し出した。
「えっ、私、そんなに……」
「いいのいいの。今日は“食の安全”についてディスカッションなの。得意でしょ?」
その一言にケイは一瞬まごついた。
(得意……なのかしら?)
自分はホメオパシーの専門家ではあるが、食の安全の専門家ではない。それでもこの明るい圧力の中では「そうですね」としか言えなかった。隆夫が低い声で言った。
「まぁ気楽にやろうや。俺たちは難しい話より、“実際どうあるべきか”を考える派だ。」
クミがすぐさま頷いた。
「そうそう。行政とか企業とかじゃなくて、私たちが何を選ぶか、よ。」
ケイは苦笑しながら頷いた。それだけで二人の目が輝き、紙の上に“ケイさん”と大きく書かれた。
(え、私の名前、議事録に?)
心の中でツッコミを入れながら、ケイはペンを手に取った。司会役の声が響く。
「それでは、各グループで話し合いを始めてください!」
クミは腕を組み、真剣な顔で切り出した。
「やっぱりね、今の日本の食べ物は危険すぎるのよ。スーパーに並んでいる野菜や果物を見てごらんなさい。あれは農薬と化学肥料で無理に育てられたものばかり。見た目は綺麗かもしれないけど、中身はスカスカ。栄養なんてほとんど残ってない。そんなものを食べ続けて、心も体も健康でいられるはずがないわ。」
彼女は少し声を落としながらも、言葉の鋭さを失わない。
「ヨーロッパではもうとっくに規制されている農薬だって、日本では堂々と使われている。グリホサートとかネオニコチノイド系農薬とか、本当なら禁止されるべきものが、政府と企業の癒着で“安全”とされているの。日本は世界から何十年も遅れてるのよ。だから私は、海外の基準を信じる。フランスやドイツがやっていることの方が、人間らしい生活に近いと感じるの。」
クミは身振りを交えながら続けた。
「私たちは消費者なの。生産者や政府に任せきりじゃなく、自分の健康は自分で守らなきゃいけない。だから私は自然食、オーガニック、有機栽培を選ぶの。少々高くても、それが未来への投資。健康を損ねて医療費に消えるくらいなら、先に“本物”を食べた方がずっと安上がり。消費者が賢くなれば市場は変わる。政治は分かってくれないけれども、私は声をあげ続けたいの。」
熱を帯びた視線が周囲を泳ぎ、言葉が鋭く結ばれた。
「もう、企業も国も信用できない。私たち自身が選んで、未来を作るしかないの。」
クミの言葉に、隆夫は深く頷いた。
「その通りだ。俺も農家として、まったく同じ気持ちだよ。ただ俺は現場にいる分、外国産に対してはもっと強い警戒心を持ってる。」
彼の声は力強く、どこか演説のようだった。
「アメリカから来るトウモロコシや小麦なんて、ほとんどが遺伝子組み換えだし、薬漬けだ。しかも知ってるか?あいつらは自国民には比較的安全な作物を出して、輸出用にはわざと農薬を濃くかけたものを日本に売ってるんだ。日本人の健康を犠牲にして儲けるためにな。これはもう、食を使った侵略だよ。」
周囲がざわつく中、隆夫はさらに言葉を重ねた。
「俺は農薬を全面否定する気はない。実際、作物を守るために必要なときもある。でも日本の農家は法律に従って最小限に抑えてるし、土や水を大事にしている。外国産みたいに乱暴なやり方じゃない。だから国産は安全なんだ。日本人には日本の土、日本の米、日本の野菜が一番合ってるんだよ。そのために俺たち農民は色んな研究開発をしている。バイオダイナミック、有用微生物群利用、スクリミンゴガイ。現場で実際に行い、効果を確かめるのは現場にいる俺たちなんだ。」
彼は拳を握りしめ、低く唸るように言った。
「都会の学者や官僚は、“効率がどう”“市場原理がどう”と机上の空論ばかり。だが本当に土地を守り、人を養ってるのは俺たちだ。外国人労働者をどんどん入れて農村を荒らす政策も同じだ。結局は日本人の農家を減らして、外国産に頼らせるための策略だ。そういうカラクリを知れば知るほど、俺は国産しか信じられなくなる。種子だって今や外国にすべて握られ、遺伝子を組み替えられ、毒を入れられている。俺たちは戦わないといけないんだ」
最後に胸を張り、誇らしげに言い切った。
「俺たち農家の誇りは、日本人に日本の作物を食べてもらうことだ。それが一番安全で、一番正しい。外国産は“毒”だ。」
二人の熱弁を聞いていたケイは、しばし黙って頷いていた。やがて静かに口を開いた。
「そうね、バイオダイナミックのことは聞いたことがあるわ。実践している人がこんな近くにいたのね」
その声は柔らかかったが、次第に熱を帯びていった。
「私はね、食べ物こそ人間の心と体をつなぐ一番大切なものだと思ってるの。ホメオパシーでは、食べ物が持つ“生命力”が体と心を調和させると考えるの。だから私は、農薬や化学肥料で汚されたものよりも、自然そのものの力を持つ食べ物にこそ意味があると信じている。」
彼女は両手を広げるようにして続けた。
「病気って、実は体が壊れているんじゃなくて、調和を取り戻そうとするサインなのよ。だから薬で押さえ込む必要はない。自然な食べ物やレメディで体は自ら治る力を持っている。私はそれを疑ったことはないし、これからも疑わない。なぜなら、私の実感として、そして心の深い部分で、それが本当だとわかるから。」
ケイは視線を二人に移し、力を込めて言った。
「だから私は、食を通じて人は変われると信じてる。心が曇ったときも、体が弱ったときも、食べ物が人を支える。これは誰にも否定できない真理なの。もっと多くの人が気づけば、社会は必ず変わるはず。」
最後の言葉は、どこか演説めいて響いた。
ケイの言葉が終わると、しばしの沈黙が落ちた。それはまるで、誰もが今の話を咀嚼する時間を必要としているかのようだった。そして次の瞬間、どこからともなく「そうだ!」「その通りだ!」という声が上がり、拍手が巻き起こった。
「ケイさん、すごい!」
「やっぱり女性の感性って大事だよ!」
「食と心をつなぐなんて、まさに私たちの目指す政治だ!」
気づけば、会場の空気が一変していた。クミはうっとりとした目でケイを見つめ、隆夫は満足そうに頷いている。司会役の若いスタッフが慌てて立ち上がり、「あの……では、グループ3の代表として、ケイさんにまとめをお願いします!」と宣言した。
「えっ、え、私が?」
ケイは両手を振って否定したが、すでに拍手が沸き起こっていた。
「適任だよ!」「話がわかりやすい!」と口々に声が上がる。
「いやいや、そんな、私なんて……」
「謙虚なところも素敵だ!」
どこでスイッチが入ったのか、参加者たちはケイを中心に盛り上がっていく。「次回の発表もお願いね」「チラシの文案とかもケイさん得意そう!」と、いつの間にか役割まで決まっていた。ケイは笑うしかなく、口元を引きつらせながらも「みんながそう言うなら……」と曖昧に返した。
拍手、笑い声、そして熱。気づけば、ケイはすっかりその中心にいた。胸の奥が不思議な高揚で満たされる。
――これが“認められる”ということなのかもしれない。
ケイの鈍色の戸惑い
数日後。ケイは党本部の小さな応接室に呼ばれていた。テーブルの向こうには党首が座っている。前回よりも穏やかな表情で、にこやかに口を開いた。
「ケイさん、この前の発表、聞かせてもらいましたよ。すばらしかった。会場の雰囲気を変える力がある。ああいう人が地域をまとめていくんです。」
「いえ、そんな……」
ケイは緊張して笑ったが、党首は続けた。
「あなたのような人に、次の総選挙に出てほしいと思っています。」
その言葉に、時間が止まったような感覚がした。ケイは思わず背筋を伸ばす。
「……え、出る、とは?」
「立候補です。もちろんすぐにというわけではありません。けれど、あなたには人を惹きつけるものがある。誠実で、熱意があって、言葉が届く。政治に必要なのはそういう力なんです。」
ケイは両手を膝の上に置いたまま、黙っていた。心の奥では、高鳴る鼓動と同時に、得体の知れない不安が渦巻いていた。周囲の笑顔、あの拍手の音、リーダーと呼ばれた瞬間の昂揚――そのすべてが頭の中をよぎる。
「……ありがとうございます。でも……」
ケイは小さく息を整えた。
「一度、家族と相談してみます。」
党首は穏やかに頷いた。
「もちろん。それがいちばん大事です。焦らなくていい。ただ――あなたのような人を、私たちは待っていました。」
その言葉に、ケイは曖昧な笑みを返した。外に出ると、春の涼風が頬を撫でた。遠くでオレンジ色ののぼりが揺れている。胸の中で、なにかが静かに燃え始めていた。

