ケイの琥珀色の決意
「出馬したいの」
夕食を終えた食卓で、ケイは静かに切り出した。子どもたちは一瞬固まり、互いの顔を見てから気まずそうにうつむいた。反対とまでは言わないが、曖昧な表情のままだ。夫はしばらく黙っていたが、やがて低い声で口を開いた。
「上司がどう言うかな。もし反対されたら・・・ それに何かあれば、俺の社内での立場が危うくなる。お前自身や子どもたちのこれからだって心配だ。政治の世界に入れば、何が起きるかわからない。最近は色々と危ないニュースも聞くし、俺にはその不確かさが怖いんだ」
ケイは少し間を置き、静かに答えた。
「確かに先のことはわからない。でも、何もせずに黙っていたら、きっと後悔すると思うの。私には伝えたいことがある。仲間の声を、支持してくれる人たちの思いを、ちゃんと形にしたい。たとえ不確かでも、そのために一歩を踏み出したいの」
話し合いは深夜まで続いた。子供たちは先に自分たちの部屋へ行ったが、気まずそうな表情だった。最終的に夫は言った。
「……わかった。ただし条件がある。家からは一円も出さないこと。会社でまずいとなったら、即座に辞退すること。この二つを守れるなら、認めよう」
ケイはうなずいた。
「約束する」
数日後、ケイは党首のもとを訪れた。緊張した面持ちで頭を下げる。
「私……出馬したいと思います」
党首は一瞬目を細め、そして静かに微笑んだ。
「よく決意されましたね、ケイさん。忘れないでください。政治家に必要なことは三つあります。
ひとつ、自分の信念を貫くこと。誰に何を言われても、自分の芯を曲げてはいけない。
ふたつ、人々の願いを背負い、それを叶えるために働くこと。自分のためではなく、支持してくれる人たちのために。
みっつ、何があっても諦めず、最後まで戦い抜くこと。
困難は必ず訪れますが、それを超えた先にしか希望はありません。費用はね、ちょっと困ったけどどうにかなります。あなたが心を決めてくれたことが嬉しい」
ケイは黙って聞き入り、その言葉を胸に刻んだ。党首は優しく微笑み、静かに付け加えた。
「あなたなら、きっとやれる」
週末、公民館で地区支部総会が開かれた。会場には鮮やかなオレンジ色ののぼりがいくつも掲げられ、壁や窓辺を彩っていた。簡素な空間が一転して、華やかな熱気を帯びている。支部長選出は拍手で承認され、ケイが正式に支部長に選ばれた。
ケイのサラダ色の祝宴
総会が終わると、隆夫が段ボール箱一杯に抱えた野菜を持ち込んできた。
「畑で今朝採れたやつだ。せっかくだし、みんなで食べようじゃないか」
トマト、きゅうり、レタス、人参――土の匂いを残した新鮮な野菜が机の上に並べられる。仲間たちは手際よく切り分け、皿に盛りつけ、ドレッシングをかけて即席のサラダパーティーが始まった。
「やっぱり国産の野菜は違うな」
「シャキシャキで美味しい!」
「これからも頑張ろうね」
笑い声と食器の音が交じり合い、会場は温かな空気に包まれた。ケイはその光景を眺めながら、自分が仲間の中心に立っていることを改めて実感した。
パーティーが半ばを過ぎた頃、アユがケイに話しかけてきた。アユはサラダの皿を両手で包み込むように持ち、ケイのほうへ体を向けて話し始めた。
「ねえケイさん。わたしね、ずっと思ってたの。政治って、地球の波動を整えるためにあるんじゃないかって」
ケイはアユの方をまじまじと見た。アユは穏やかな笑みを浮かべたまま、語り続けた。
「古代仏教では“縁起”って言うでしょ? すべての存在は響き合っている。ひとつの葉が揺れれば、遠くの海が応える。私たちの心も同じで、争いの波動を出せば地球全体が重くなるの。だからこそ、政治は争いじゃなく調和のためにあると思うの」
「ヨガの師から聞いたの。宇宙は“プラーナ”、つまり生命の呼吸でできてるって。だけどいま、原子力発電所やデータセンターのノイズが、その呼吸を詰まらせている。あれはエネルギーを生み出すんじゃなく、地球のチャクラを乱してるのよ」
ケイは思わず、フォークを止めた。アユの言葉は夢のようでありながら、どこか切実な響きを持っていた。
「病気もね、魂のメッセージだと思うの。薬で抑えようとするんじゃなく、なぜその痛みが来たのかを感じることが大切。マスクやワクチンを“義務”にするのは、魂の自由を奪う制度だと思う。政治がそれをやめて、人が本来の呼吸を取り戻せるようにしてほしいの」
アユは少し間を置き、窓の外の夜空を見上げた。
「古代インドでは“アートマン”と“ブラフマン”は同じものだと言うの。個人の魂と宇宙の魂は、もともとひとつ。政治も同じだと思うのよ。人の小さな願いが、やがて国の大きな流れになる。それを繋ぐのが、ケイさん、あなたの役目じゃないかって思う」
ケイは何も言わなかった。ただ、アユの瞳に映るオレンジ色ののぼりの揺らめきを見つめていた。
「量子の世界ではね、観測することで現実が形になるって言うでしょ? わたしたちの思いも同じ。愛と感謝の波動を放てば、必ず現実が変わるの。だから政治も、“反対”や“批判”じゃなくて、“感謝”から始めてほしいの。愛のエネルギーは最強だから」
アユは微笑みながら両手を胸の前で合わせた。
「どうか、愛と調和の政治を。誰も取りこぼさない、優しい周波数で、この国を包んでほしいの」
ケイは小さく頷いた。その言葉がどこまで現実的なのか、自分でもわからない。けれど、アユの静かな確信に触れたとき、胸の奥のどこかが温かく灯るのを感じた。
会の終わり際、一人の男が近づいてきた。日焼けした顔に鋭い目つき。
「俺は浩一。4つの会社を経営していて、資産は10億ある」そう言ってスマートフォンを差し出した。 画面にはXのアカウントが映っている。
「積極財政ニンジャ――これが俺のアカウントだ。見ろよ、フォロワーは2万人を超えてる。真実を発信すれば、こんなに人がついてくるんだ」
浩一は自慢げに笑い、その目に陰のある熱を宿していた。 そこへ党首が再び現れ、もう一人を紹介した。
「こちらは真兵。アメリカの大学を出たエリートで、選挙戦略のプロです。選挙コンサルタントとしてケイさんを支えてくれるでしょう」
眼鏡をかけた真兵は落ち着いた声で「よろしくお願いします」とだけ言った。サラダの香りと、新しい人々との出会い。その夜、ケイはついに自分が政治家としての道を歩み出したことを実感していた。

