第7章 ケイの赤錆色の覚悟
街頭演説を終えたあと、ケイはしばらく動けずにいた。マイクを片づけるスタッフの声が、少し遠くに聞こえる。人は集まっていた。足を止めて話を聞く人も、うなずく人もいた。それでも――何かが、広がっていかない。支持が増えている実感がないわけではない。同じ顔、同じ人たち、同じ反応。一歩ずつ進んでいるはずなのに、同じ場所を踏み続けているような感覚だけが残る。通りの向こうから、また声が飛んできた。
「帰れ!」
「素人が政治を語るな!」
もう珍しくはなかった。最初は驚き、次は腹が立ち、最近では――胸の奥が、じわりと重くなる。耳を塞ぐほどではない。立っていられなくなるほどでもない。それでも、毎回確実に削られていく。「気にするな」と言われるほど、「それが政治だ」と言われるほど、自分が弱いだけなのだと思わされる。事務所に戻ると、陳情者たちが集まってきた。
「ケイさん、これも一緒に訴えてもらえませんか」
「次はこの件を前面に出しましょう」
差し出される資料。並ぶ要望。それらの多くは、ケイがここに立つ理由とは、少しずつズレていた。ホメオパシーの承認。それはケイ自身が、時間をかけて考え、迷い、それでも信じたいと思ったテーマだった。だが、彼らの口から出てくるのは――
「ついでにこれも」
「支持層が広がりますから」
「本当は皆、こういうのを求めているんです」
政治的な計算。別の思想。個人的な要求。否定するほどの自信もなく、受け入れるほどの覚悟もない。曖昧な笑顔でうなずきながら、ケイは思った。
――私は、何を背負っているんだろう。
夜、自宅に戻っても、気持ちは切り替わらなかった。鏡に映る自分の顔は、疲れて見えた。
「向いていないのかもしれない」
ふと、そんな言葉が浮かぶ。慌てて打ち消そうとしても、完全には消えてくれなかった。
数日後、ケイは党首を訪ねた。秘書に用件を告げると、思いのほかすぐに通された。部屋は静かだった。派手な装飾はなく、書類と本が整然と並んでいる。党首は、ケイの顔を見るなり、椅子を勧めた。
「どうしました」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、少し緩んだ。ケイは言葉を選びながら、話し始めた。
「活動を続けているんですけど……手応えが、なくて」
「広がっている感じがしないんです」
党首は、遮らずに聞いている。
「街頭演説で、罵声を浴びることも増えてきました」
「慣れたつもりでいたんですけど……正直、辛くなってきて」
一度、言葉が途切れた。
「それに……」
「仲間たちから、いろんな要望を持ち込まれるようになって」
ホメオパシーの話をすると、ケイは少しだけ視線を落とした。
「私が大事にしたいと思っていることと、関係のない話まで出てきて」
「でも、それを切り捨てる勇気もなくて」
沈黙が落ちる。ケイは、意を決して続けた。
「私、覚悟が足りないんだと思います」
「政治をやる理由も……浅い気がして」
党首は、しばらく何も言わなかった。机の上の書類に目を落とし、ゆっくりと息を吐く。そして、ようやく口を開いた。
党首は、少しだけ姿勢を正した。
「私が政治の世界に入った理由ですが」
そう前置きして、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「正直に言えば、最初は軽い気持ちでした」
ケイは意外そうに顔を上げた。
「私の出身は、比較的裕福な自治体です。学生の頃、議員インターンシップをやっているNPOに参加して、地方議会の現場を見ました。そのままの感覚で、若くして地方議会に立候補し、当選しました。政治家というのは世のため人のために働き、尊敬される。そういう仕事だと思っていました。ところが……現実は、全然違った」
党首の声が、少し低くなる。
「市内で生活保護の申請があると、役所はこう対応していました。大都市までの電車賃を渡して、『そちらで申請してください』と」
ケイは思わず息をのむ。
「怒って役所に抗議しました。でも返ってきたのは、財政が厳しい、という説明だけでした。だが、それは表向きの理由に過ぎなかった。本当は、もっと深い闇があったんです。」
「特定の政党の議員を通せば、地元で生活保護が通る。革新政党や宗教政党の議員が、裏で斡旋をしていました。生活保護を通す代わりに、党員になること。入信すること。そうやって生活保護が通った人たちは、党員や信者にさせられ、機関紙を買わされ、生活保護費の一部を寄付させられ、選挙のたびに、指示された候補に投票することを求められる」
党首は、拳を軽く握った。
「私は、心底怒りました。政治が歪めば、人は生きるために信仰の自由や投票の自由を差し出さなければならなくなる。市政与党の保守政党にも相談しました。でも、彼らは冷たかった。むしろ、革新政党や宗教政党の機関紙を『情報収集』という名目で、役所の各部署に買わせていた。市役所の幹部も、例外ではなかった。そうやって厳しい追及が来ないようにして、市長や与党議員と親しいNPOや、役所OBの外郭団体に、多額の予算が流れていく」
党首は静かに言った。
「私には、それは賄賂政治と同じに見えました。改革を掲げる新興政党にも話を持ちかけたこともあります。彼らは理解を示してくれましたし、党に入らないかとも言ってくれた。だが条件があった。議員報酬の大幅カット、政治資金の削減です。理念は分かる。でも、私には資金的な背景がなかった。それでは活動が続けられない、と伝えると、返ってきたのは一言だった。「『そういう理念ですから』と」
党首は小さく息を吐いた。
「最近、彼らの資金の乱れが報道されていますね。あれだけ活動資金を縛れば、裏の道に手を出す人間が出ても、不思議じゃないと思っています」
「こうして私は行き場を失いました。地方議員を辞め、地下に潜り、思索の日々を過ごしました。そうして、自分で政党を作ることに決めました。自分と同じ、政治的な行き場のない人たちのための党を。そうすると、この国には私が思っていた以上に政治から疎外されている人がいました。知性が低いと馬鹿にされ続けてきた人たち。税や社会保障といった国家の介入を、強く拒む人たち。現代科学では主流とされない考え方を信じている人たち。苦しみを自分で処理できず、社会を罵ることでしか立っていられない人たち。精神疾患を抱えながら、差別を恐れて診断も治療も受けられない人たち。政治というのは、本来、そういう弱い人たちのためのものです」
党首は、ケイをまっすぐに見た。
「今、この国で一番弱い人たちは、政治から疎外され、自由を奪われ、どこにも投票先がないと感じている人たちだと私は思っています。ケイさんも、きっとそういう思いを抱えて生きてきたんじゃないですか」
ケイは、言葉を失った。図星だった。
「そりゃあそうですよ。どこか行くところがあればここには来ません。だから私は、この政党を率いている。悩みや怒りや違和感を、『間違っている』と切り捨てず、政治の場に持ち込める場所を作りたい。党大会にはお金持ちの支持者もいましたね。満たされているように見えても、彼らもまた、政治には強い不満を抱えています」
そして、最後に静かに言った。
「私は、そういう政治家になると決めました」
「あなた自身も、そういう人だと思った」
少しだけ、声に力がこもる。
「だから、活動を続けてほしい」
「逃げずに、立ち続けてほしい」
ケイは何も言わなかった。言えるはずもなかった。

