目方で売って、時代に負けた鋳物会社の話
この話は、私が実際に体験した企業倒産の話です。公庫を退職してから10年が経過し、守秘義務が解除となったためにネットに公開できる話ですが、まだ関係者がおられる話もありますので、フェイクを入れての話となります。実話が六割、だから「実録」と呼ばれますが、そういうものだと思って読んでください。
今回の舞台は、三重県の桑名市です。桑名といえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。焼き蛤でしょうか。「その手は桑名の焼き蛤」という言葉もありますが、私が名古屋に赴任した当時、金融機関の現場でよく耳にしたのは、桑名の鋳物産業の苦境でした。
中国に負ける!
桑名は地場産業として鋳物産業が多いことで知られています。ところが私が赴任した2010年ごろ、桑名の鋳物産業は大変な苦境の中にありました。その大きな要因としてはリーマンショックももちろんあるのですが、それ以前から桑名の鋳物産業は、中国との価格競争に負けつつあったのです。
桑名の鋳物産業には、構造的に中国に勝てない商習慣がありました。それは「目方で値段を決める」というものです。鉄を一トン溶かして鋳物にすればいくら、という取引慣行が当時の桑名の鋳物産業では一般的でした。
これでは産業は育ちません。高度な鋳物を作っても簡単な鋳物を作っても、使う鉄の量が同じなら値段が同じだからです。高度な鋳物を作れば工数が増え、高い技術が必要で、不良品が出来てしまうリスクもある。それでも値段が同じなら、会社は技術を磨くより簡単なものを大量生産する方を好むようになります。
こうした商習慣の結果、桑名の鋳物製造業の中には名前は売れていても、実際には技術力に乏しいという企業がたくさんありました。だから中国製品に値段で負けてしまう。一方で鋳物は大規模な設備投資が要る産業でもあり、利幅が薄くなる中で設備も老朽化していき、更新投資が出来ずますます中国製に後れを取るという構造になっていました。
この構造の影響を一番受けていたのが、百五銀行の桑名支店でした。会社名は全て仮名ですが、ここだけは実際の銀行名を出します。当時の支店長は次々と自行メインの先が不良債権化していく中、本当に頭が痛かったと思います。私も再生案件ではいろいろとお世話になりました。これからお話するのは4つの企業の生死です。全て百五銀行桑名支店がメインバンクだった先です。
目を覚ますことなく倒産
倒産した会社の一つに、「納屋町鋳造」という会社がありました。桑名の鋳物屋でしたが、工場は四日市市の海沿いにありました。ここは、まさに昔ながらの商習慣にどっぷり浸かった会社で当然、業績は左前で再建中でした。高齢だった社長が亡くなり、息子さんが会社を継ぐことになりました。連帯保証人の交替を要求しに行ったついでに、私は新社長にこう言いました。
「これからは、目方で取引するのをやめて、技術力を高めていきましょう」
すると新社長は、少し不思議そうな顔をして、こう言いました。
「いや、目方で取引するのが当たり前ですよ。この業界は」
ガクーッとなりましたね。自分たちの常識を変えられない。価格競争に負けているのに自分たちの常識を変えられない、他の業界から学ばない。まだ40歳の社長でした。これはもう持たないと判断し、その話を打ち切りました。そして企業再生に向けた道筋をどう作るか、会社をどうしていくかといった話は一切せず、新社長を連帯保証人に追加しリスケを継続することにしました。一年も経たずに納屋町鋳造は破産。新社長もまた、自己破産することになりました。
頑張っても倒産
もう一つ、印象に残っている会社があります。「はまぐり鋳工」としておきます。
ここの社長は本当に人柄の良い方でした。朝早くから工場に出て、愚直に仕事をする。奥さんも一緒に現場に出て働く。毎日毎日一生懸命働く。人事を尽くして天命を待つがごとき愚直さでした。
しかし、天命ははまぐり鋳工に味方しませんでした。この会社も結局は一トンあたりいくら、という取引から抜け出せませんでした。安い仕事を大量にこなす仕事しか受注できず、価格の叩き合いでしか仕事が取れない、付加価値が上がらない、難しい仕事は出来ない。前述の百五銀行の支店長は「手形以外の全ての支払いが遅れている」と表現していました。
最後は、静かに力尽きるように倒産していきました。当時、鋳物会社の倒産を多く看取りましたが、この会社はその中で飛び抜けて財務内容が悪い会社でしたが、倒産は最後になりました。社長の人徳が債権者に支払いを待たせたのでしょう。負債総額が大きく周囲にかけた迷惑も大きな倒産でしたが。
目を覚まし再生
一方で生き残った会社もあります。一つは、「多度鋳造所」という会社です。社長はかなり高齢で年商の何倍もの借入を抱えていた会社でしたが、多度鋳造所は「孫の婿に会社を継がせる」と言って社長の寿命を超えるような長期戦略を取ります。
「もう目方の取引はしない、一つ一つ技術料を取る」
そう言って、見積もりの出し方を変えたのです。鉄の値段はいくら。加工賃はいくら。技術料はいくら。手間のかかるものには、きちんと手間の値段をつける。簡単な仕事と難しい仕事を、同じ土俵で見ない。
こうして取引先を一つ一つ回り、何年も変わっていなかった見積もりを出しなおしたのです。単に見積もりを出しなおすだけでもコストが上がって嫌がられるところ、そこにさらに技術料です。多くの取引先から切られました。しかし社長は「そういう赤字の取引をやるぐらいなら寝といた方がいい」と言い、長期的な取引をしてくれるところを選別。産業用機械の大手1社だけがその姿勢を評価し、大幅な値上げを受け入れました。のちに聞いたところでは、その会社は桑名の会社はハイレベルな加工を嫌がるので、高度な仕事を発注できる先を探していたとのことでした。
結果として、この会社は生き残りました。今は大きな会社にM&Aされ、子会社として引き続き産業用機械部品の製造を行っています。
諦めて、だからこそ再生
もう一つの生き残り企業は「ホクセー鋳造」といいます。
ホクセー鋳造はこれまでの会社とは全く別の判断をしました。自分たちには高い技術力があるわけではない。目方で売っていては中国との価格競争には勝てない。国内で同じことを続けても、いずれ限界が来る。そこまでは再建に成功した多度鋳造所と同じです。
ホクセー鋳造の違うところは、そこで国内製造を諦めたんですね。逆に中国での現地生産に踏み切りました。中国に進出し、現地工場を作り、国内の工場は閉鎖し倉庫に改装、商社機能に特化しました。
この判断は当たりました。中国で安く作り、国内では販売や管理に徹する。自分たちが勝てない場所で戦うのではなく、勝てる形に事業の形を変える。ちょっとした不良なら改装した倉庫に残っている設備で直せる。その結果急速に収益力を回復し、再生に至ることができました。
「ホクセー鋳造は業績が十分良くなったので津支店に返します。津支店の担当から連絡させますから今後はそちらでお取引を」
債権管理担当として、この言葉が言える企業は決して多くありません。ホクセー鋳造は私にとって思い出深い企業の一つです。
企業の生死を分けたもの
この四つの会社を見ていると、企業の生死を分けるものは「ものの見方」であることが分かります。納屋町鋳造やはまぐり鋳工は怠けていたわけではありません。ものの見方が古く、時代の変化についていけなかったのです。逆に多度鋳造所やホクセー鋳造はものの見方を自ら変えました。自らを見直し、市場を見渡し、自分自身を疑い、変化を受け入れた。
現実を見て、受け入れれば、活路が見えてくる。変化を起こせる。企業倒産の現場には、経営者がとしてあるべき考え方があります。
